第20回『このミステリーがすごい!』大賞・文庫グランプリ受賞作。鴨崎暖炉著の書籍『密室黄金時代の殺人 雪の館と六つのトリック 』から厳選して全5回連載でお届けします。今回は第2回です。三年前に起きた日本で最初の“密室殺人事件”。その判決を機に「どんなに疑わしい状況でも、現場が密室である限り無罪」が世間に浸透した結果、密室は流行り病のように社会に浸透した。そんななか、主人公の葛白香澄は幼馴染の夜月と一緒に、10年前に有名な「密室事件」が起きた雪白館を訪れる。当時は主催者の悪戯レベルだったが、今回はそのトリックを模倣した本物の殺人事件が起きてしまい――。あなたは、この雪白館の密室トリックを解くことができるか!? 雪白館へ到着した香澄と月夜は、メイドの迷路坂と支配人の詩葉井に出迎えられる。けっこうな広さのある雪白館は、この2人で切り盛りをしているという。宿泊する部屋を一通り物色した香澄がロビーへ向かうと、そこには他の宿泊客たちがいて…。
『密室黄金時代の殺人 雪の館と六つのトリック』(鴨崎暖炉/宝島社)
タクシーを降りて一時間ほど歩くと、見えてきたのは橋だった。長さ五十メートルほどの木製の吊り橋。森を両断するように左右に深い谷が走っていて、その両端を繋ぎとめるように頼りなく木の橋が架かる。谷底までの深さは六十メートル程。両岸はどちらも切り立った崖のようで、人間が上り下りするのは、まず不可能に思われた。
谷底を覗き込んだ夜月が、「うわっ」と声を上げる。
「これ、落ちたら確実に死んじゃうね」
彼女は当たり前のことを言う。でも確かに落ちたら死ぬので、僕らはおっかなびっくり橋を渡った。橋を渡り終えて、そこからさらに五分ほど歩くと、未舗装の山道の向こうに白い塀が見えてきた。随分と高い塀だ。二十メートルほどはあるだろうか。
塀の中央には門扉があった。開いているので、そこを潜る。門扉の傍には監視カメラがあって、そのレンズが来客である僕たちのことを捉えていた。
そう─、来客だ。塀の中にあったのは庭で、その中央には目的のホテルが建つ。白色の塀よりも一際白い白亜の洋館。『雪白館』はその名の通り新雪の色の建物だった。
塀に囲まれた庭は広く─、庭というよりも館の周囲の土地を壁で囲っただけという印象だった。庭木は少なく、地面も剥き出しの黒土で、花壇の類も見当たらない。
館の玄関の前まで歩くと、そこでメイド服を着た金髪の女が煙草を吸っていた。年は二十歳くらいで、髪の毛は肩までの長さ─、地毛ではなく染めているようだ。かなりの美人ではあるが化粧っ気はなく、さばさばとした印象を受ける。メイドは僕たちの姿に気付くと、ポケットから携帯灰皿を取り出し、名残惜しそうに煙草を消した。
「予約されたお客様ですか?」
メイドは素っ気ない口調で言った。「はい、予約した朝比奈です」と夜月は言う。メイドはこくりと頷いた。
「お待ちしておりました。中へどうぞ」
メイドは、本当にお待ちしていたのか怪しくなるような口調で言った。全体的に愛想が足りない。いや、足りないのは愛想ではなく、やる気なのかもしれないが。
玄関の戸を潜り、雪白館の中へ入る。玄関から延びた短い廊下を行きながら、メイドは思い出したように告げた。
「私はこのホテルでメイドをしております、迷路坂知佳と申します。何か御用がございましたら、何なりと申し付けください」
彼女は、そう定型句のように言う。完全に業務口調なので、本当に申し付けて良いのか心配になってくる。
「迷路坂さんか」と夜月が呟くのが聞こえた。「メイドのメイロ坂さんか」どうやら、語呂合わせであるらしい。夜月は人の名前を憶える際に、語呂合わせをする癖がある。
*
玄関から続く短い廊下を抜けると、そこにはロビーが広がっていた。元々は個人の邸宅だったとは思えないくらいに広く、中規模なホテルのロビーとサイズ的に遜色はない。ロビーにはテーブルとソファーがいくつか並べられていて、そこでは数人の客たちがコーヒーや紅茶を楽しんでいた。テーブルにはケーキの皿も置かれていて、どうやら喫茶店のように軽食のサービスもあるらしい。壁際には大きなテレビもあった。
僕と夜月はまずはフロントでチェックインを済ませることにした。フロントにいたのは三十歳前後の女性で、髪型はショートカット。セーターの上から黒いエプロンを付けていて、どことなく喫茶店の店主のような印象を受ける。落ち着いた大人の女性だ。日常の謎を持ち込むと解決してくれる美人の女店主のよう。
実際、彼女はこのホテルの支配人であるらしい。この館は、彼女とメイドの迷路坂さんの二人で切り盛りしているのだとか。
彼女は詩葉井玲子と名乗った。「支配人のシハイさんか」間髪入れずに夜月が呟く。
詩葉井さんは、柔らかな笑みを浮かべて言った。
「朝比奈様、葛白様、本日は雪白館にようこそいらっしゃいました。豊かな自然と美味しい料理─、そして推理作家の雪城白夜が残した密室の謎解きを。私たち雪白館のスタッフは、皆様を全力でおもてなしいたします」
詩葉井さんはどこか照れくさそうにそんな口上を述べると、フロントに置かれたパソコンのキーを叩く。どうやら、部屋番号を確認したらしい。「宿泊場所は御二方とも西棟の二階になります。朝比奈様が204号室、葛白様が205号室ですね」
そして一度フロントの奥の部屋に引っ込むと、二本の鍵を手に戻って来た。長さ十センチほどの銀色の鍵だ。すらりとしたデザインで、持ち手の部分に部屋番号が刻印されている。彼女は僕と夜月に一本ずつ、その鍵を手渡した。
受け取った鍵を確かめていると、詩葉井さんは冗談めかして言う。
「無くさないでくださいね。合鍵はございませんので」
言われて、僕はもう一度鍵を見る。鍵の先端はかなり複雑な形状をしていた。おそらく、複製は不可能だろう。
僕は鍵をポケットにしまう。そして「205号室」と自分の部屋番号を呟いて、気になっていたことを詩葉井さんに訊ねた。
「あの、西棟というのは?」
僕の部屋は西棟の205号室。でもこの館に来たのは初めてだし、外観もさっき少し眺めただけだから、正直この建物の構造がよくわかっていなかったりする。
「ちょうど、ここにパネルがございます」
詩葉井さんはそう言って、フロントの後ろの壁に飾られたパネルを指差した。建物を俯瞰した図が描かれている。雪白館の見取り図のようだ。
「この雪白館は、四つの建物から構成されています」と詩葉井さんは言った。「まず私たちが今いる─、このロビーのある建物を中央棟と申します。中央棟は一階建てです。そして中央棟の東西には、それぞれ東棟と西棟が─、中央棟の北側には食堂棟がございます。食堂棟はその名の通り、食堂がある棟ですね。朝昼晩の食事はすべてここでお出しします」
見取り図によれば、東棟と西棟と食堂棟(北棟)は、それぞれ扉や渡り廊下で中央棟のロビーと繋がっているが、逆に東西北の三つの建物はそれぞれ直接繋がってはおらず、各棟を移動する際には、必ず中央棟のロビーを通らなければならないようだった。例えば、西棟から東棟に移動する際には、必ずロビーを通る必要がある。
「その認識で合っております」と詩葉井さんは柔らかく笑う。「言わば中央棟が、他の三つの建物を繋ぐジョイントの役割を果たしているというわけですね。加えてこの雪白館には裏口の類が一切ございませんので。窓もすべて開閉が不可能な嵌め殺しか、格子が嵌まっていて人の出入りができないタイプの窓です。唯一庭に出ることができる経路は中央棟にある玄関のみですが、今申し上げました通り、この館には裏口の類はございませんから、庭を通って他の棟に移動することができない造りになっております」
「ふーん、不便ですね」と夜月が言った。「何で、そんな構造になっているんだろ」
「さぁ? 推理作家の考えることは私には」詩葉井さんは曖昧な笑みを浮かべた後で、見取り図を指差して続ける。「ちなみに、各棟を繋ぐ渡り廊下は屋根と壁に囲まれた構造です。吹き曝しではございませんので、そこから外に出ることもできません」
詩葉井さんの言葉に僕は頷く。つまり渡り廊下とは言っても、実際は室内にある廊下と変わらないということだ。
僕は見取り図を見て訊ねた。
「この建物は?」見取り図には、四つの棟の他にもう一つ建物があった。小さい建物で、西棟の北側からぴょこっと飛び出ている。渡り廊下で繋がっているようだ。
「ああ、これは離れです」と詩葉井さんは言った。「雪城白夜が執筆に使っていた部屋の一つです。通称、缶詰部屋。アイデア出しに困った際には、彼はここに籠って林檎を齧っていたそうです」
「何故、林檎を」と夜月。
「アガサ・クリスティーのエピソードにそういうのがあるんだよ」と僕は言った。お風呂に浸かりながら林檎を齧ると、いいアイデアが浮かんでくるというやつだ。そのエピソードを聞くたびに、ほんまかいなと思ってしまうが。
とにかく、雪城白夜の缶詰部屋か。それはぜひとも見てみたいが。
「残念ながら、今は客室として使っておりますので、お見せすることはできません」と詩葉井さんは申し訳なさそうに言った。「今日もご予約が入っておりますので」
なるほど、それは残念だ。ちなみに、離れも渡り廊下で繋がっているから、そこに移動するには西棟を経由する必要がある。
*
「では、ごゆるりとおくつろぎください」フロントでチェックインを済ませた後、僕たちはメイドの迷路坂さんに宿泊部屋まで案内された。西棟は三階建ての建物で、僕の205号室はその二階の一番奥に位置していた。真っ直ぐな廊下に面して、201号室から205号室の五つの部屋が並んでいる。僕を部屋の前まで案内すると、迷路坂さんはぺこりとお辞儀をした。「食事は夜の七時になっておりますので、その時間に食堂までお越しください。私と詩葉井の部屋もこの西棟にございますので、夜間に御用のある場合は、何なりとお申し付けください」
迷路坂さんは相変わらずのさばさばとした口調で言う。本当に夜間に申し付けていいのだろうか? 不安になってくる。
僕はむむっと唸りつつ、ノブに手を掛け扉を開く。すると、そこには白を基調とした清潔な部屋が広がっていた。従業員が二人しかいないとは思えないほど、掃除が行き届いている。
「いちおう、ルンバを二十台ほど飼ってますので」迷路坂さんが僕の後ろから部屋の中を覗き込んで言う。「なので、掃除はほとんどロボット掃除機まかせです。もちろん、細かいところは人の手が必要ですが、それは私が。これでも掃除は得意ですので」
「そうなんですか」何だか意外だ。
「はい、いちおう世界メイド掃除選手権のファイナリストですから」
「世界メイド掃除選手権のファイナリスト」
何だか謎の肩書が出てきた。おそらく冗談なのだろうが、もしかしたら実話かもしれない。
「それでは、ごゆるりと」
迷路坂さんはもう一度そう言って、ロビーの方へと去って行った。僕は荷物を置いた後、さっそく部屋の中を物色してみることにした。
部屋の広さは十畳ほどで、それとは別にトイレとお風呂と広い洗面所が付いている。家具はベッドとテレビと、冷凍スペースの付いた二段式の冷蔵庫くらい。床は飴色のフローリングで、窓は開閉不可の嵌め殺し。かなりいい部屋だ。迷路坂さんの話では、この部屋は元々ゲストルームとして使われていたらしい。雪城白夜は客を招くのが好きで、西棟のほとんどの部屋がこのゲストルームであるのだとか。
僕は次に扉を調べてみることにした。
チョコレート色の一枚扉。重厚な見た目に反して軽く、どうやら一般的な家屋の室内用のドアとしてよく用いられる、フラッシュドアと呼ばれる内部に空洞があるタイプの扉が使われているようだった。木製ということもあり、扉の重さはおそらく十キロ程度だろう。これなら大人が何度か体当たりをすれば、破ることができそうだ。あと、これも迷路坂さんに聞いた話なのだが、この西棟の部屋の扉はすべて同一のもので統一されているらしい。扉のデザインや大きさ、内開きか外開きかについても同じだ。なので自室の扉の構造さえ把握していれば、同時に他の部屋の扉の構造も把握できることになる。ちなみに、この部屋の扉は内開き。だから西棟の部屋の扉はすべて内開きということになる。
何だかテンションが上がってきた僕は、床に身を屈めて扉の下を覗き見た。扉とドア枠はぴったりと密着していて、そこに隙間は存在しない。いわゆる『ドアの下に隙間がない』タイプだ。これでは密室トリックのド定番─、鍵を扉の下の隙間から室内に戻すというトリックが使えない。それだけで、いちミステリーマニアとしては、何だか、にやりとするのだった。
扉を調べ終えたところで、僕はそろそろ部屋を出ることにした。夜月とロビーでお茶をする約束をしていたのだ。隣の部屋─、204号室に移動する。コンコンと扉をノックすると、「ごめんよ」と夜月が出てきた。
「まだ、荷解きが終わってないんだ。先に行ってて」
と彼女は言うものの、それは明らかに嘘だった。夜月のゆるふわの髪の毛には、ぴょこんと寝癖が付いている。どうやら寝ていたらしく、それで身だしなみを整える時間が必要なのだろう。
僕が寝癖を凝視していると、夜月は少し恥ずかしそうに、そっと髪の毛を手櫛で梳いた。
*
仕方なく僕は一人でロビーに向かうことにした。階段で西棟の一階に降りたところで、僕はその姿を見かけた。少し、びくっとしてしまう。廊下の窓辺で一人の女の子が、そっと庭を眺めていたのだ。白い肌と、肩口で切りそろえた銀色の髪。ひと目で外国人だとわかる。しかもその容姿は、人形のように整っていた。
年齢は僕と同じくらいだろうか? 高校生くらいの見た目だ。
少女は僕の姿に気付くとにこりと笑った。そして「こんにちは」と流暢な日本語で言う。僕も慌てて「こんにちは」と返した。外国人と話すのは、少し緊張してしまう。
逆に少女は、まったく緊張を見せずに言う。「ここはいい場所ですね」と笑って、「夏はきっと、いい避暑地になりますね」と世間話を始めた。
避暑地とか、難しい日本語を知っている。
「ここに来た目的は観光ですか?」と僕も世間話を繋ぐ。すると少女は「はい、観光です」と言った。「この近くにスカイフィッシュが出ると聞いたものですから」
「スカイフィッシュ?」と僕は首を傾ける。すると少女は人差し指を立てて、こんな風に説明してくれた。
「スカイフィッシュとは、空飛ぶ魚のことです。簡単に言うとUMAですね」
「簡単に言うとUMA」
その言葉に、僕は固まる。
……、こいつ、夜月と同じ匂いがするな。
唐突に現れた夜月っぽさに、僕は警戒心をあらわにする。でも悩んだ末に結局、「素敵ですよね、スカイフィッシュ」そんな風に話を合わせた。「魚が空を飛ぶなんて夢があります」可愛い女の子に好かれたいという思いが、僕に日和見な発言をさせる。
その甲斐あって、少女は嬉しそうな笑みを浮かべた。「素敵ですよね、スカイフィッシュ」はにかむように、そう告げる。「それが見たくて、わざわざ福岡からやって来たんです」
「福岡? 海外じゃないんですか?」
「私は福岡在住のイギリス人なんです。五歳から住んでいます」
なるほど、どうりで日本語が達者なわけだ。
彼女としばらく話した後で、僕はそろそろロビーに向かうことにした。「じゃあ、また」と頭を下げると、彼女も同じ仕草を返した。そして別れ際に名前を名乗った。
「私はフェンリル・アリスハザードと申します。ここにはしばらく滞在する予定なので、ぜひとも一緒にスカイフィッシュを探しましょう」
僕はグッと親指を立てる。
「僕は葛白香澄です。ぜひ、一緒にスカイフィッシュを」
*
「大変、香澄くん、ここってネットに繋がらない」メロンソーダを飲みながら、夜月が僕の向かいの席で悲痛な声を上げた。僕はロビーのソファーに腰掛けながら、紅茶に口を付けて言った。
「タクシーを降りた時から圏外だっただろ?」
「そうなんだけど、ホテルに着いたらWi-Fiが使えると思ってたんだもん」夜月は、ううぅ、と嘆き、傍のテーブルを布巾で拭いていたメイドの迷路坂さんを呼び止める。
「すみません、ここってWi-Fi飛んでないんですか?」
「申し訳ございません」と迷路坂さんは、あまり申し訳なくなさそうに言った。「ネット回線は引いておりますが、無線LANは導入していないので。どうしても携帯電話は圏外になってしまいます」
「ううぅ、まじか。陸の孤島やんけ」夜月はそう嘆きながら、スマホをポケットの中にしまった。そしてロビーを見渡して言う。ロビーには、ぽつぽつと客がいた。
「今日は何人くらいのお客さんが泊まりに来ているんですか?」
「予約されているお客様は十二人です」
「十二人も。そんなに」夜月は目を丸くした。そして納得のいった顔をする。「やっぱり、みんなイエティに興味があるんですね」
「イエティ?」
「無視してください」僕は迷路坂さんにそう告げた。
迷路坂さんは首を傾けた後、ホテルが繁盛している理由について教えてくれた。
「手前味噌ですが、支配人の作る料理がとてもおいしいんです」
「詩葉井さんの?」と夜月は言った。「料理は彼女が作っているんですか?」
「はい、創作イタリアンで、とてもおいしいと評判です。この館が長期滞在のお客様しか受け入れていないのも、元々は色んな料理を味わっていただきたいという詩葉井の我が儘から始まったものでして。でも、その甲斐もあって、料理を目当てにやって来られるお客様も多いんですよ。例えば、あそこに座られている社様とか」
迷路坂さんは、少し離れたテーブル席で談笑する男に目を向けた。高そうなスーツを着た四十歳くらいの男と、セーターにジーンズ姿の三十歳くらいの男が談笑している。社というのは、四十歳くらいの男の方らしい。
「ちなみに社様は会社の社長らしいのですが」
「社長の社さん」と夜月。
「うちの料理を大変気に入ってくださっているようで、よくおいでになるんです。まぁ、私は支配人を口説きに来ているんじゃないかと疑っていますが」
そう言われると、そんな感じがする。社はいかにも自信にあふれたタイプで、瞳もギラついていた。何というか、女癖が悪そうだ。
「もう一人の方は、社さんのお連れの方ですか?」と夜月が訊いた。社と話すセーターの男に視線を向ける。社とは対照的に、落ち着いた雰囲気の容姿だった。
「いえ、あのお客様と社様は初対面だそうです」と迷路坂さんは言った。「お二人とも時計が趣味だそうで、互いの腕時計を見てすぐに会話が弾んだそうです。お二人とも昨日から泊まっているのですが、たった一日であのように仲良くなられました」
確かに、初対面とは思えない雰囲気だった。しかし社長である社が目に留めるほどの時計を付けているとは。あのセーターの男も、実はかなりの金持ちなのだろうか。
「はい、医者だそうです」
「医者かよ」やはり上流階級だったか。
「はい、石川さんという名前だそうで」
「医師のイシカワさんね」と夜月。
「二人とも何百万円もする時計を使っているそうです。そこまでの高級品を身に付けるのは、私は逆に下品なんじゃないかと思っているのですが」
迷路坂さんは、そんな風に毒を吐く。彼女は毒舌メイドだった。おまけに、よく考えると顧客の職業といった個人情報もペラペラと喋っているし。個人情報ゆるゆるメイドなのかもしれなかった。話し相手としては楽しいけれど、ホテルの従業員としてはどうかと思う。
そんな個人情報ゆるゆるメイドは、こちらにぺこりと一礼して、その場を立ち去ろうとする。僕はそこでふと迷路坂さんに用があったことを思い出した。呼び止めると、迷路坂さんはどこか迷惑そうに視線を向ける。
「何でしょう?」
「いや、何というか」僕は紅茶で喉を湿らせて言う。「この館には、雪城白夜の持ち物だったころから、手の入っていない部屋があると聞きまして」
僕の曖昧な言い回しに、それでも迷路坂さんはピンと来たようだった。「ああ、あなたもあの部屋が目当てなんですか」と告げる。
「あの『雪白館密室事件』の犯行現場が」
僕はこくりと頷いた。かつて雪城白夜のホームパーティーで起きた事件の現場だ。
迷路坂さんは小さく肩を竦めた。
「密室の謎解きなんて─、私には何が面白いのかわかりませんが、もちろんお見せすることは可能です。支配人の創作イタリアンと並んで、当ホテルの名物ですから」
僕は紅茶を飲み干し、腰を上げた。そしてメロンソーダを飲んでいる夜月に訊く。
「夜月はどうする?」
「私はまったく興味ないので」
間髪入れずに返ってきた。僕はとても寂しかった。
<第3回に続く>